ぼくのふね

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浅倉透は存在しないが、浅倉と樋口は存在するというはなし

 フィクションは現実に対して効力/抗力を持ちうる。それはたかがフィクションだからというムードのようなものにぼくが反対し続けるための一つの宣言です。先日、大学で受講しているフランス哲学の講義の、まぁ余談のような箇所で「実験国家としてのアメリカを成り立たせるためにはメルヴィルやフォークナーのような「物語」が必要なのではないか」という、問題提起といってはおおげさかもしれませんが、そのようなことを聞きました。ぼくは英米文学が専門ではないのでメルヴィルもフォークナーも片手で数えられる程度しか読んでいませんが、これを現実に対する虚構の効果と位置付けることは牽強付会ではないでしょう。

 

 そんな虚構と現実という問題系の中で、ひとつ作業仮説を立ててみようと試みるのが本稿のテーマです。それというのは、「フィクションの登場人物単体は架空の存在にすぎないが、カップリングは現実と同じレベルで存在する」というものです。最近、浅倉透という架空のアイドルについてこじらせているのですが、彼女を代入すれば「浅倉透は存在しないが浅倉透と樋口円香は存在する」となります。阿呆、と思われるかもしれませんが、本稿ではまず関係とはどのようなものかという点と、フィクションのテクストとはどのようなものかという二つの点からアプローチしていきます。ただ、本稿で浅倉については名前が登場する程度で、彼女の内面を深く掘り下げたりとおまどのここが良いという話は(したいのだが)しないので、それを期待されている方には詰まらぬ文章だと思います。最後まで読んでいただければ幸いです。

 

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1.関係の外在性、思考の連鎖

 「関係」とは、どのようなものか。卑近な例からたどれば友人関係や家族関係、恋人関係のように人―人の結びつき。これは一対一でなくとも、例えば「お隣さんとの関係」だとか「弊社とA社の関係」などのように多対多、または一対多でもありえますね。また人―人でなくとも、人―ものの関係も考えられます。加えて、これは特に数学の領野でも、包括関係や大小関係などにも「関係」がみとめられます。

 

 ここで問題なのは、この「関係」の所在はどこにあるのか?というものです。家族関係、より厳密には親子関係は、親は子を産み、子は親から産まれたということで説明ができます。こうしてみると、親Aは「子Aを産んだ」という性質、子Aは「親Aから産まれた」という性質を持つことによって、親子関係が成り立つように見える。これはヘーゲル的な一元論の考え方、すなわち完全に個別なるものは普遍者を除いて存在せず、個別なるものの説明のためには他の個別なるものとの関係がその性質として分有される以上、独立しているとは言えない、ということです。より図式化して言えば、個別なるものaは、個別なる者bとRという関係を持つ(aRb)。この関係Rは、両者を説明するのに欠くべからざる要素である。

 

 この矛盾を喝破したのがバートランド・ラッセルです。ヘーゲル的な一元論では個別の分析はできないと考えた彼は、「非対称な関係」を以て一元論を批判します。これは前置きなのであまり深くは立ち入りませんが、「非対称な関係」の例としては、大小関係や「遅い早いの関係」があります。例えば、われわれはどれだけ速く走っても新幹線を追い越すことができないので、Aさんは「新幹線より遅い」という関係を持つことになりますが、これは果たしてわれわれが持つ性質として有効か?という問です。もっと言えば、まぁ誰でも良いのですが紫式部を僕が敬愛しているとした場合、紫式部の性質として「僕に敬愛されている」という性質が備わっているのか?といえばわかりやすいかもしれません。

 また、別の点から。aがRという関係をbに対して持つとき、それが「bに対してRという関係を持つ」という性質としてaに還元されたとして、この「持つ」という関係が無限遡行に陥るのではないか?という批判です。

 

 以上のことから、「関係は個別なる者の性質として完全に還元することはできない」ということがラッセルの論の骨子になります。これは言い換えれば、「関係は外在する」ということ。しかしここでまだ一つの疑問が残ります。それは「関係とはどのように作られるか?」ということです。友人関係や恋人関係などは、当事者同士の了解によって成り立つ、いわば彼らにとっては架空のものです。ですが婚姻関係などは体制からすれば、再生産労働をになう重要なものですから架空のものでは困ります。ゆえに婚姻届けによって形成し、離婚届けによって破棄される。このような関係は制度によって作られる、ということで説明がつきますが、友人関係や恋人関係などは誰によって、どのように作られるのか?

 

 しつこいようだが、関係は個別なる者には宿りません。ではどのように作られるのかと言えば、関係というのは、人間によって作られるものだとヒュームによって指摘されています。

 

 記憶とは、それによってわれわれが過去の諸知覚の像を呼び起こすところの能力以外の、何であろうか。そして、像は必然的にそれの対象に似るのであるから、これらの類似した諸知覚をしばしば思考の連鎖のうちに置くことは、必ず、想像力を一つの環から別の環へとより容易に運び、〔思考の連鎖の〕全体を単一の対象の連続のように見えさせるのではなかろうか。[ヒューム:296]

 

 

これは「観念連合」という名で呼ばれる考え方です。これは大きく1.類似、2.隣接、3.因果の三つに分けられるのですが、順にみていきましょう。

 「類似」は、最もわかりやすい形でとらえられます。三本以上の脚の上に平面が乗っているものをわれわれはイスと呼ぶわけですが、関係の外在性からいえばイスAとイスBのあいだには関係は成立しないはず。にもかかわらず、われわれがイスAとイスBを類似の関係においてテーブルの前に並べるのは、「三本以上の脚の上に平面が乗っている」という点において両者が類似していると、われわれが知覚するためと言えるでしょう。

 次に「隣接」です。これもまたイスとテーブルに登場してもらいますが、周知のとおりイスそのものとテーブルそのものの間に関係はなく、ただ人間が両者を併せて使用するという点で、イスとテーブルは関係する、ということです。

 最後に「因果」です。たとえば、そうですね、「女性」と「家事」との間には、何ら関係はありませんが、「女性だから家事をしなさい」というのは、この点からするとおかしなことになります。しかしこのような偽られた因果が社会規範において通用しているのは、われわれの知覚において、繰り返される現象はいつしか疑似的な法則として成立してしまう、という、想像力の連鎖が起こるからと言えます。

 まぁ、これは余談ですが、これらの類似・隣接・因果というのはそっくりそのまま修辞の隠喩・換喩・転喩にあてはまるというのはよく指摘される箇所でもあります。

 

 戻ります。ここまで確認してきたのは、個別なる者Aと個別なる者Bとだけの間には関係は存在せず(関係の外在性)、またその関係は両者を知覚する人間によって作られる(思考の連鎖)ということでした。ここでまた、浅倉透に登場してもらいましょう。浅倉は架空の存在だということには異論はないと思います。樋口円香についても同様。浅倉自身と樋口自身の間に関係性はないわけですから(関係とは架空であり、またそれは知覚する人間において作られる、というのは上述の通り。)、とおまどを知覚するわれわれが関係を作るわけです。これは、この関係は、架空(または虚構)と対立するとされる現実の関係と、まったく同様のものではないか?と言えるのではないでしょうか。関係する項の性質に「関係」それ自体が還元できない以上、関係項が現実だろうと虚構だろうと、その関係の強度は変わらないというわけです。

 

2.「つくられた/書かれたもの」として

 ぼくが紙とペンのカップリングの存在を証明したいのだったらこれで終わってよかったのですが、浅倉も樋口も架空の人物なのでそうはいきません。浅倉や樋口が登場する媒体はゲームなわけですから、当然彼女らのセリフを執筆するライターがいらっしゃる。いくらぼくが彼女らの関係についての強度を主張しようと、「でもそれってライターのセリフであって浅倉/樋口のセリフではないじゃん?」という反論はまだ可能なのです。ただ、ライターの存在というのはゆるぎない事実なわけですから、本章は受容方法の問題に絞ろうと思います。

 

 フィクションの人物造形については、いろいろやり方があると存じますが、私小説でもない限り、それは「概念をもってキャラクター化する」方法と、「現実の人間を「文学」化(本稿の限りにおいては、フィクショナイズする、と言い換えてもいいでしょう)する」方法(註1)の二種類に大きく分けられるのではないかと思います。浅倉がどのように造形されたのかは到底ぼくの知るところではありませんが、上記二タイプのやり方によって作られたキャラクターが、作者の意図を十全に代弁するものではない、ということが言えます。言い換えれば、フィクションの作者は、その人物に仮託してものを書く、というまぁ当たり前と言えば当たり前のことです。(むろん、作者が登場人物に自身の意図を代弁させるということもあるというのは承知の上で、です。)

 

 フィクションの作家というのは、彼自身の、または造形するキャラクターの「文体」によってテクストを書くわけですが、こうして書かれたテクストを読んでわれわれは、その言語の統一性の奥にある/いる(ようにみえる)、いわば言語の主体を想像するわけです。この言語の主体とは、じっさいの作者とは異なり、読み手の創造によって作られるものです。浅倉の言葉を読むわれわれにとって、作者でなく言語の主体が浅倉として想像されれば、それでよいのではないか、とぼくなどは考えるわけです。

 

コンピュータのプログラミングにより作られたテクストが前に置かれる場合にも、そのことが伏せられている限りで、読者は、そこにしかと作者の像を見出す。では、それがコンピュータによる作品だった場合、読者はテクストに騙されたことになるのだろうか。〔…〕そうではない。彼は正当にテクストを読んでいる。[加藤:74‐75]

 

ここで受容者=読み手であるわれわれは、誠実な読みとは何かを問わねばならないと思うのです。 

 

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脚注1|大塚:626

 

参考文献|

大塚英志サブカルチャー文学論朝日新聞社 2004

加藤典洋『テクストから遠く離れて』講談社 2020

ヒューム,デイヴィッド 木曾好能訳『人間本性論 第一巻 知性について』法政大学出版局 2011

三浦俊彦ラッセルのパラドクス――世界を読み換える哲学――』岩波書店 2005

 

 

 

 

フィクションとポリコレについてのあれこれ

 ぼくがその手の事件を通覧したわけではないので個別具体的な事件は扱いませんが、フィクションやポリコレについての現状分析の文章のつもりです。考えながら書くので必要以上に持って回った内容になると思いますが、あしからず。

 

1. 現状、なぜフィクションが(インターネットの)ポリティカルな批判の俎上にあがるのか

 

 「現実」と「虚構」という対立項のうち、一般的な認識ではフィクションは「虚構」の側に位置するでしょう。「現実」で悪いことしていないんだしいいじゃん、フィクションのなかくらい好きなことさせてよという宣言はこういった認識に基づいている。しかしフィクションが出版や流通の手順を踏んで私たちが享受することができる形をとっている以上、それは現実に位置を持ちます。

 

 そこで「表現/表象の仕方が不適切だ」という批判がなされる。具体的に言えば、人間や動物が登場するフィクションについてはキャラクターを造形しなければならないわけで、作者のそのキャラクターに対する「属性」の与え方が配慮に欠けたものである、という批判です。フィクションへのポリティカルな批判のほとんどは、この「表象」機能がはらむ権力構造に因ると考えられます。

 

 表象という行為は、表象する―見る側とされる―見られる側の主客の関係を生みだします。そしてそこで表象される客体は、客体そのものではなく、〈主体の見方に依拠した〉客体である。こうした暴力的な表象のあり方を暴いたのがサイードでした。

東洋人は、いずれの場合にも、(西洋によって)支配を体現する枠組みの中に封じ込められ、またそのような枠組みのもとで表象される存在なのである。[サイードオリエンタリズム』上 平凡社ライブラリー 1993 100-101項]

 これは現実の例ですが、キャラクターに属性を与えなければならないフィクションについては、輪をかけて暴力的なものになりかねない。それが「現実」に依拠したものであればあるほど。

 そもそも全き虚構というのはあるのでしょうか。あるにはあるでしょうが、ほとんどの芸術作品/フィクション作品の類は現実の模倣としてあらわすことができます。ここで現実と虚構のどっちが優れていてどっちが劣っているという議論は無意味でしょうから避けますが、私たちが「虚構」と呼ぶものは多かれ少なかれ「現実」に依っているということができないか。

 加えて、フィクションの機能として再実例化(シェフェールだったと記憶しています。手元にないのでうろ覚えですが。)というものを紹介します。これは模倣の概念を拡張したもので、フィクションによって描かれる事件・事象が現実にコミットし、同一の機能や作用を演じるというものがあります。

 

 だんだん話が脱線してきているのでここで戻します。長々と話しましたが最も問題となるのは畢竟、こうした表象が現実に基づいてなされる、ということでしょう。

 空気として何となくですが、フィクションにはある種の既定路線のようなロールが存在していると思います。そうしたロールはもともと存在してたわけでは決してなく、ゆるりと長い歴史の中で形成され、しばしば「属性」(詳しくは後述します)と結びつき、ここが争点になるケースが最も多いように感じます。

 

 ここで一つ付言しておきますと、こうした批判に関連して、その作者が引き合いに出されることがあります。仮に作者の言動に問題がある場合は批判されて当然、というか「フィクション作品」に対する評価とその作者自身は、ポリティカルな批判の議論においては明確に区別されるべきでしょう。よく歴史的な「名作」とされる作品やその作者を引っ張ってきて「昔は当たり前だった~」という言説が振り回されているのを目にしますが、そもそもお門違いでしょう。逆もしかりです。しつこいようですが、作者や作品の政治性と、その作品の「質」は別々に評価されるべきだ。

 

2.属性とロール、それと慣習

 同じことの繰り返しになりますが、フィクションのキャラクターの創作は、必ず属性とロールの問題が付きまといます。ここでいう属性とは「白人」であるとか「女性」であるとかの、いわば規範のもとで与えられる基準のことです。ロールというのは例えば「主人公」や「幼馴染」なんかが該当するでしょうか。

 

 こうした属性とロールには、歴史的に繰り返され、こびりついた慣習のようなものが事実として存在します。この慣習というのは、今まで観測され、繰り返されてきた個々の事例たちが、疑似的に法則化・一般化されたものであり、そこに正統な起源は存在しません。

 そしてこれを模倣させるのが規範 norm だというわけです。

 

 また脱線しますが、Siriやアレクサなどのインターフェースに具体的な貌が与えられていないのはこうした事情に因るのではないかと思います。人間がアンドロイドを使役する世界を描いた映画『イヴの時間』やクアンティック・ドリームによるゲーム『Detroit:Become Human』(まだエンディング見ていませんが...)などに登場するアンドロイドたちは、実に様々な人種・年齢の人間を模したものが登場します。

 もしアンドロイドやインターフェースなど、「人間が使役するもの」に実在する具体的な属性を与えてしまった場合、「使役されるもの」という慣習が獲得されてしまうためです。

 

 話を戻します。このような慣習や、それを模倣させる規範が根拠がないもの、人為的に作られたものであるということが露見すると、「これが規範だから」と抑圧されていた人たちから批判と抗議の声が上がります。そして私たちが「マイノリティ」と呼ぶ人たちがこれに該当します。

 

 語の確認のために立ち止まりますが、マジョリティ/マイノリティは単純に数の多寡によってのみ決定されるものではないということは記しておくべきでしょう。

 ドゥルーズ=ガタリによって指摘されていますが、マジョリティとは自己同一性を獲得するための規範を有する人、換言すれば現行の規範のうちで抑圧されずに社会的な活動が可能な人のことです。正常化 normalization される必要のない人と言ってもいいかもしれません。

 たいしてマイノリティというのは、自己同一性の獲得に関して、自分の中に規範を持っていない人、規範による主体化がなされていない人ということができます。

 

 ここにおいて数の多寡というのは結果であり、マジョリティ/マイノリティの区別はエンパワメントの大きさによると言えるでしょう。

 

 ここから若干抽象的な話から具体的な内容にシフトしていきます。ポリティカルな批判で俎上に上がるのは、こうした起源無き慣習によって抑圧されているマイノリティから提起されることが多いでしょう。そして対象となるのは規範に無自覚なマジョリティではないか。しかし規範に無自覚である、というのも無理はありません。自己同一性を有するマジョリティである人たちは、常日頃からマジョリティという自覚をもって生活している人たちは少ないのではないでしょうか。であるから他者に言われてはじめて気づくということが往々にしてあります。

 

 この点については同居をしていくことが、まずできることなのかと考えます。属性によってでなく、それこそ「AからZまで」個人として。

 

 この論点においては対象がフィクションだけとは限りませんが、属性とロールが結びついた規範的なフィクションが発表されることは、慣習の模倣の片棒を担ぎ、「現実」に影響を及ぼしうる行為であるということができるでしょう。先ほど1のところで述べた「再実例化」というわけです。