フィクションとポリコレについてのあれこれ

 ぼくがその手の事件を通覧したわけではないので個別具体的な事件は扱いませんが、フィクションやポリコレについての現状分析の文章のつもりです。考えながら書くので必要以上に持って回った内容になると思いますが、あしからず。

 

1. 現状、なぜフィクションが(インターネットの)ポリティカルな批判の俎上にあがるのか

 

 「現実」と「虚構」という対立項のうち、一般的な認識ではフィクションは「虚構」の側に位置するでしょう。「現実」で悪いことしていないんだしいいじゃん、フィクションのなかくらい好きなことさせてよという宣言はこういった認識に基づいている。しかしフィクションが出版や流通の手順を踏んで私たちが享受することができる形をとっている以上、それは現実に位置を持ちます。

 

 そこで「表現/表象の仕方が不適切だ」という批判がなされる。具体的に言えば、人間や動物が登場するフィクションについてはキャラクターを造形しなければならないわけで、作者のそのキャラクターに対する「属性」の与え方が配慮に欠けたものである、という批判です。フィクションへのポリティカルな批判のほとんどは、この「表象」機能がはらむ権力構造に因ると考えられます。

 

 表象という行為は、表象する―見る側とされる―見られる側の主客の関係を生みだします。そしてそこで表象される客体は、客体そのものではなく、〈主体の見方に依拠した〉客体である。こうした暴力的な表象のあり方を暴いたのがサイードでした。

東洋人は、いずれの場合にも、(西洋によって)支配を体現する枠組みの中に封じ込められ、またそのような枠組みのもとで表象される存在なのである。[サイードオリエンタリズム』上 平凡社ライブラリー 1993 100-101項]

 これは現実の例ですが、キャラクターに属性を与えなければならないフィクションについては、輪をかけて暴力的なものになりかねない。それが「現実」に依拠したものであればあるほど。

 そもそも全き虚構というのはあるのでしょうか。あるにはあるでしょうが、ほとんどの芸術作品/フィクション作品の類は現実の模倣としてあらわすことができます。ここで現実と虚構のどっちが優れていてどっちが劣っているという議論は無意味でしょうから避けますが、私たちが「虚構」と呼ぶものは多かれ少なかれ「現実」に依っているということができないか。

 加えて、フィクションの機能として再実例化(シェフェールだったと記憶しています。手元にないのでうろ覚えですが。)というものを紹介します。これは模倣の概念を拡張したもので、フィクションによって描かれる事件・事象が現実にコミットし、同一の機能や作用を演じるというものがあります。

 

 だんだん話が脱線してきているのでここで戻します。長々と話しましたが最も問題となるのは畢竟、こうした表象が現実に基づいてなされる、ということでしょう。

 空気として何となくですが、フィクションにはある種の既定路線のようなロールが存在していると思います。そうしたロールはもともと存在してたわけでは決してなく、ゆるりと長い歴史の中で形成され、しばしば「属性」(詳しくは後述します)と結びつき、ここが争点になるケースが最も多いように感じます。

 

 ここで一つ付言しておきますと、こうした批判に関連して、その作者が引き合いに出されることがあります。仮に作者の言動に問題がある場合は批判されて当然、というか「フィクション作品」に対する評価とその作者自身は、ポリティカルな批判の議論においては明確に区別されるべきでしょう。よく歴史的な「名作」とされる作品やその作者を引っ張ってきて「昔は当たり前だった~」という言説が振り回されているのを目にしますが、そもそもお門違いでしょう。逆もしかりです。しつこいようですが、作者や作品の政治性と、その作品の「質」は別々に評価されるべきだ。

 

2.属性とロール、それと慣習

 同じことの繰り返しになりますが、フィクションのキャラクターの創作は、必ず属性とロールの問題が付きまといます。ここでいう属性とは「白人」であるとか「女性」であるとかの、いわば規範のもとで与えられる基準のことです。ロールというのは例えば「主人公」や「幼馴染」なんかが該当するでしょうか。

 

 こうした属性とロールには、歴史的に繰り返され、こびりついた慣習のようなものが事実として存在します。この慣習というのは、今まで観測され、繰り返されてきた個々の事例たちが、疑似的に法則化・一般化されたものであり、そこに正統な起源は存在しません。

 そしてこれを模倣させるのが規範 norm だというわけです。

 

 また脱線しますが、Siriやアレクサなどのインターフェースに具体的な貌が与えられていないのはこうした事情に因るのではないかと思います。人間がアンドロイドを使役する世界を描いた映画『イヴの時間』やクアンティック・ドリームによるゲーム『Detroit:Become Human』(まだエンディング見ていませんが...)などに登場するアンドロイドたちは、実に様々な人種・年齢の人間を模したものが登場します。

 もしアンドロイドやインターフェースなど、「人間が使役するもの」に実在する具体的な属性を与えてしまった場合、「使役されるもの」という慣習が獲得されてしまうためです。

 

 話を戻します。このような慣習や、それを模倣させる規範が根拠がないもの、人為的に作られたものであるということが露見すると、「これが規範だから」と抑圧されていた人たちから批判と抗議の声が上がります。そして私たちが「マイノリティ」と呼ぶ人たちがこれに該当します。

 

 語の確認のために立ち止まりますが、マジョリティ/マイノリティは単純に数の多寡によってのみ決定されるものではないということは記しておくべきでしょう。

 ドゥルーズ=ガタリによって指摘されていますが、マジョリティとは自己同一性を獲得するための規範を有する人、換言すれば現行の規範のうちで抑圧されずに社会的な活動が可能な人のことです。正常化 normalization される必要のない人と言ってもいいかもしれません。

 たいしてマイノリティというのは、自己同一性の獲得に関して、自分の中に規範を持っていない人、規範による主体化がなされていない人ということができます。

 

 ここにおいて数の多寡というのは結果であり、マジョリティ/マイノリティの区別はエンパワメントの大きさによると言えるでしょう。

 

 ここから若干抽象的な話から具体的な内容にシフトしていきます。ポリティカルな批判で俎上に上がるのは、こうした起源無き慣習によって抑圧されているマイノリティから提起されることが多いでしょう。そして対象となるのは規範に無自覚なマジョリティではないか。しかし規範に無自覚である、というのも無理はありません。自己同一性を有するマジョリティである人たちは、常日頃からマジョリティという自覚をもって生活している人たちは少ないのではないでしょうか。であるから他者に言われてはじめて気づくということが往々にしてあります。

 

 この点については同居をしていくことが、まずできることなのかと考えます。属性によってでなく、それこそ「AからZまで」個人として。

 

 この論点においては対象がフィクションだけとは限りませんが、属性とロールが結びついた規範的なフィクションが発表されることは、慣習の模倣の片棒を担ぎ、「現実」に影響を及ぼしうる行為であるということができるでしょう。先ほど1のところで述べた「再実例化」というわけです。

 

 

3.おわり

 ここまでタイトル通りあれこれ書いてきましたが、まだまだ救えていない話題はたくさんあります。表現の自由や、それに付随して問題となる「規制」の問題、実在系・非実在系(柴田英里さんが使っていた用語だったと記憶しています。例によって原本が手元にありませんので...)問題等々。これらについては気が向いたら、ということでまたの機会に。ここでおわりです。